果たせなかった夢・・・旧国鉄阪本線(五新線) 賀名生付近 
 (平成16年3月6,13日撮影)(平成17年10月3日掲載)

明治時代にはすでに計画され、昭和初期に工事が開始されたものの、結局、鉄道として開通することのなかった阪本線(五新線)

その、なれの果てと言えるバス専用道の途中、梅林の広がる賀名生で降りてみました。

賀名生バス停 賀名生バス停の五條側にある、親房トンネル。

この上には、南朝(吉野朝)に功績のあった北畠親房の墓があります。
(13日撮影)
親房トンネルと橋梁
賀名生バス停のすぐ先にある屋名瀬(屋那瀬?)トンネル
賀名生バス停

駅予定地であったため、バス停裏にも空き地がある。
五條からバスが来ました。
賀名生梅林の観光地図

・・・国鉄バス時代のもののようです。
(13日撮影)
山全体が梅林

実際には、観賞用ではなく梅畑だそうな。
(13日撮影)
室町時代初期、南朝(吉野朝)となった皇居跡(堀家住宅)

なお、内部の見学には、往復ハガキで事前申し込みが必要。(堀家が住宅として、現在も使用しているため)
(13日撮影)
正面にある「皇居」の扁額
(13日撮影)専用道から皇居跡を臨む

阪本線(五新線)の沿線案内

私が知っている限りで、阪本線(五新線)沿線のうち、阪本までには次のような旧跡,観光地などがあります。
もちろん、これ以外にも、まだまだあるかも知れません。

賀名生付近:
  ・賀名生梅林
  写真にもあるように、山全体が梅林。ただし、ここは公園とかではなく、「梅畑」(個人の所有地)であるため、ほとんどが周遊道からの鑑賞となる。といっても、写真のように、道の際まで梅がせり出しているので、それでも充分である。 余談であるが、「写真以外のものを取るな」という看板が掛けてある場所があった。
・南朝(吉野朝)皇居跡
後醍醐天皇が、吉野山へ向かう途中、この「堀家」に立ち寄られ、その後、吉野が攻められた際に後村上天皇が逃れ、「堀家」に住まわれた。なお、「皇居」の扁額は、江戸後期になって書かれたものだそうでである。(現在の扁額は、レプリカで、本物は民俗資料館にあるようである) なお、阪本線(五新線)が、賀名生を経由するルートが選ばれたのも、皇室とのつながりを考慮した可能性もある(※1)。
・北畠親房の墓
北畠親房は、後醍醐天皇そして南朝を支えた公家。神代以来の天皇の政治を論じ、南朝の正統性を説いた「神皇正統記」を著した。

城戸付近:
・西吉野温泉
後醍醐天皇が、吉野へ向かう途中、立ち寄られたとされる温泉。城戸バス停から徒歩30分くらい(おそらく、送迎くらいはあるだろう)。 もし、近鉄が城戸に乗り入れていたら(※2)、三重の湯の山温泉同様に観光開発したかもしれない。

立川渡付近:
・清々大滝(立川渡大滝)
立川渡から山越えの国道旧道に入って、道路沿いにある。天辻トンネルは、この滝を過ぎたあとに見えるそうだ。五新線跡を探索した人のサイトには、立川渡バス停から徒歩30分とのこと。

阪本付近:
・大塔コスミックパーク「星のくに
天文台やプラネタリウムがある宿泊施設。ワタシも1996年12月に、その当時のパソ通仲間と行ったことがある。残念ながら曇り空ではあったが、雲の切れ間から見えた月を、天体望遠鏡でみただけでも感動であった。光害も無く、空気も澄んでいるので、晴れていればもっと感動であろう。 「星のくに」のホームページはこちら


※1:

五新線構想ができたのはは、明治〜大正時代。天皇が国家元首だった時代のはなしである。五新線と皇室のつながりは、他に、熊野を経由する予定であった、という点がある。
※2:


阪本線バス化案が浮上したとき、近鉄が「自身で電化した上で、阿部野橋から吉野口を経由して城戸まで乗り入れる」という案を発表したそうである。 また、余談ではあるが南海がこれに対抗して、「難波から橋本を経由して城戸に乗り入れる」という案を発表していたそうである。






「阪本線(五新線)バス専用道」,阪本線の現状(解説)はこちら

「阪本線(五新線)城戸駅」,城戸から先(解説)はこちら



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